2nd Infantry Division (2ID)
第2歩兵師団は、米陸軍で最も前方に配備され、殺傷力があり、戦闘準備のできた師団である。第2歩兵師団の任務は、戦争を抑止することである。抑止が失敗すれば、Warrior師団の兵士は、韓国の同盟軍と協力し、「自由の辺境」を防衛する用意がある。2IDは、韓国における主要米地上戦闘部隊である。師団本部は、議政府のCamp
Red Cloudに位置し、その主任務は、高度の戦闘即応性及び警戒を維持することにより、朝鮮半島での戦争を抑止することである。2ID部隊「SECOND TO NONE」は、DMZ真南の韓国第1梯隊部隊と協力する。
米第2歩兵師団長は、少将(2つ星)である。1990年4月、合衆国国防総省は、韓国における合衆国の軍事的プレゼンスを、可能な限り、国際政治条件としてのより小さな支援的役割と、強化された韓国の防衛能力に徐々にシフトするプログラムを発表した。このプログラムの一部として、米韓は、米韓連合野戦軍を解散することで合意した。
ユニークな戦力機構と戦闘能力は、米陸軍又は朝鮮半島のどこにも見出せない。Warrior師団は、連合軍内の他の師団よりも大きな戦闘力を保有する。第2歩兵師団は、機甲、機械化歩兵、空中襲撃歩兵及び戦闘航空部隊を含む強固な諸兵科連合チームである。第1及び第2旅団は、機動旅団であり、計2個M1A1 Abrams戦車大隊、2個機械化歩兵大隊(Bradley)及び2個空中襲撃歩兵大隊を有する。他の主要司令部は、航空旅団、師団砲兵、工兵旅団、及び師団支援司令部である。師団砲兵(DIVARTY)は、陸軍最大であり、他のDIVARTYより多くの多連装ロケット発射システム(MLRS)を含む。師団は、M1A1 Abrams戦車、M2/3 Bradley歩兵戦闘車、AH66 Apacheヘリ及びMLRSを含む世界最良の装備を装備し、米韓両軍で最高質の将兵を誇っている。
ワシントンのFort Lewisに位置する第2歩兵師団の固有の第3旅団は、現在、暫定旅団戦闘チーム(IBCT)に再編されている。この改編中、カンザス州Fort
Rileyの第1旅団、第1歩兵師団(機械化)は、師団のためのCONUS駐屯増強旅団となり、計画上、2IDの機甲重第1旅団に似ている。
Warrior師団は、現実の脅威に直面している。世界最大の軍隊の1つが、正に非武装地帯(DMZ)を挟んで陣取っている。戦闘は、1953年に停止したが、朝鮮戦争は、決して公式に終わっていない。戦闘即応とは、優れた訓練、統率力、装備及び職業的支援等、多くのことを意味する。Warrior師団長は、良く計画され、堅実で、現実的な訓練プログラムに、これら全てのことを集めている。
コンピュータ・シミュレーションは、指揮官及び戦闘幕僚訓練において、大きな役割を演じている。師団は、Camp Casey及びCamp Hoveyにおいて、5日間のWarfighter演習を定期的に実施している。師団の戦闘即応性と韓国同盟軍と協力するその能力に寄与することは、合衆国陸軍、又はKATUSA兵士への師団の韓国増強である。2,000人以上のKATUSA兵士は、師団の戦力機構に完全に統合されている。彼らは、戦車搭乗員、砲兵、行政専門家及び調理師として勤務する。
第2歩兵師団の15,000人の戦士は、韓国の北西部中の17ヶ所の異なる施設に分散している。本部は、議政府市のCamp Red
Cloudに位置する。部隊主力は、東豆川近くのCamps Casey及びHoveyに駐屯している。残り14ヶ所のキャンプは、戦闘及び支援部隊の小さな集結地を有する。非武装地帯(DMZ)からわずか2kmの自由の橋と臨津江の北方に駐屯する第506歩兵連隊第1大隊が、「最前線」に立っている。師団は、兵士の生活の質を改善する
ことを目的とした主要建設及び改修キャンペーンの最中である。1999会計年度末までに、30以上の新しい兵舎建設プロジェクトが完了した。Borderline Cafe及び旅団「Super Dayrooms」のような新しいレクリエーション及びダイニング施設が、兵士により良い居住環境を提供するために建設されている。Camps CaseyとHovey間に位置する新築された空中襲撃訓練施設は、最近、80人以上の新しい空中襲撃の資格を有する戦士を訓練し、卒業させた。学校は、海外で建設及び運営されたこの種の最初のものである。
堅実な訓練は、その滞在中、戦士を忙しくさせるが、第2歩兵師団
での勤務には、任務以上のものがある。生活の質は、Warrior師団において優先とされている。多くの新しい兵舎施設は、過去数年間に建設されたもので、建設が続いている。新しいクラブが建設されており、多くの既存の施設が完全に改修された。陸軍・空軍交換システムと商業ファースト・フード・レストランは、より多くの食事の選択にドアを開いている。情報スーパーハイウェイも、自由の辺境に来ている。ケーブル・テレビの敷設は、最終敷設過程にあり、利用装備で兵士達にインターネット・アクセスをもたらす計画が存在する。兵士は、Warriorの
予定表に合致するように計画された創造的かつ柔軟なプログラムをしばしば利用して、その教育を継続することもできる。教室外及び営外で学ぶことも多い。
1年間の韓国勤務中、兵士は、豊かで、別種の文化と独特な地理でこの国を楽しむ機会を得る。太古の伝統が、急速に近代的な産業及び経済力を身に着けている国家
で繁栄し続けている。兵士は、水原のFolk Village、雪獄山、DMZ、仏教寺院、及び多くの有名なショッピング・エリアのような局地アトラクションへの定期的に予定されたツアーを利用することができる。その周囲に関心を持つ者は、そのツアーに非常に満足している。事実上、師団の13,000人の兵士全員が1年間勤務する事実にも拘らず、勤務に同行しない家族も、第2歩兵師団の一部である。約3,000人の家族は、戦士がここで勤務している間、韓国で暮らすことを選んでいる。
2IDは、非司令部後援地域に位置する。兵士達は、自分の家族をこの地域に連れてくることを思いとどまっている。2IDは、戦時任務指向師団であり、兵士達は、その勤務の大部分を野外で過ごす。この地域に家族を連れてくる兵士達は、警報サイレンが聞こえる範囲内に居住しなければならない。このこと
だけが、利用できる地域と住居の種類を制限する。今、エリアIには、いくつかの非常に良いアパート群があるが、通常、施設から少し離れて位置し、家賃は、極めて高い。自分の家族を連れてくる兵士達は、通常、小さな(極めて小さな)部屋に改装された局地住宅と、簡易アパートと呼ばれるものに居住する。トイレ、水道その他の公共施設が共用なのを見つけることは、稀なことではない。
第2歩兵師団は、1917年10月26日、フランス、Beaumontで動員された。その動員時、Indianhead師団は、1個歩兵旅団、1個海兵旅団、1個砲兵旅団及び各種支援部隊から構成された。第2歩兵師団の最初の戦闘は、Belleau-Woodの戦いで起こった。後に、師団は、従軍したChateau-Thierry戦役中、戦場での4年間の手詰まりを粉砕した。師団は、Soissons及びMont Blancにおいて、激戦の勝利を勝ち取った。最終的に、Indianhead師団は、戦争を終結に導いたMeuse-Argonne攻勢に参加した。1918年11月11日、停戦が宣言され、第2歩兵師団は、ドイツに凱旋し、1919年4月まで占領任務を遂行した。
合衆国帰還後、師団は、テキサス州Fort Sam
Houstonに駐屯した。師団は、続く23年間そこに留まり、陸軍のための新しい概念及び新機軸を試験する実験部隊となった。1940年、第2歩兵師団は、各師団に3個独立連隊を提供した新しいトライアングル概念の下で再編された最初の司令部だった。
オーバーロード作戦、つまり、ノルマンディー侵攻のための集結の一部として、第2歩兵師団は、1943年10月、Fort Sam
Houstonからアイルランドに移動した。D Day+1の1944年6月7日、師団は、血のオマハ海岸
に上陸した。他の部隊がドイツの断固たる抵抗により停滞させられた中、Indianheadは、ノルマンディーの生垣を突破した。39日間の激戦後、第2歩兵師団は、1944年9月18日に解放されたブレスト市の重要港湾を奪取した。ベルギー、サン・ヴィット周辺の陣地から、バルジの戦いを通して、第2歩兵師団は、敵のリエージュ及びアントワープ市に続く重要道路
占領を阻止しつつ死守した。1945年2月6日に攻勢を再開し、師団は、撤退するWehrmachtを阻止する競争に合流した。
予定された日本侵攻への参加が予定されてが、第2歩兵師団は、V-J Dayを迎え、再び帰国した。一連の米本土の移動後、Indianheadは、ワシントン州に駐屯した。そのFort Lewis基地から、彼らは、北極、空輸、上陸、及び機動訓練を実行した。
1950年夏の韓国での開戦と共に、第2歩兵師団は、極東への移動に待機させられた。師団は、7月23日に釜山を経由して韓国に到着し、合衆国から直接韓国に到達した最初の部隊となった。当初、一部が動員され、完全師団は、1950年8月24日、洛東江ラインにおいて、第24歩兵師団との交替に投入された。第2歩兵師団は、釜山包囲網を突破した最初の部隊だった。師団は、後に、満州国境への第8軍の進撃をお膳立てした。中国軍が戦闘加入したとき、第2歩兵師団の兵士は、第8軍の後方を防護し、南方に撤退した。1951年4月及び5月、第2歩兵師団は、共産主義者の春季攻勢
の破砕に役立った。1953年4月9日、師団は、後方地域に移動し、その最後の部隊が韓国に到着してから4年後の1954年8月20日、第2歩兵師団は、合衆国に再配置された。
1954年夏、第2歩兵師団は、韓国からワシントン州、Fort Lewisに戻り、1956年8月
にアラスカに移動するまでの2年間だけ留まった。1957年11月8日、陸軍省は、第2歩兵師団の動員解除を発表した。しかしながら、1958年春、陸軍省は、ジョージア州、Fort Benningにおいて、第2歩兵師団を再動員した。Fort Benningは、1958年から1965年まで、新しい第2歩兵師団の駐屯地となった。1962年3月、第2歩兵師団は、戦略陸軍軍団(STRAC)部隊に指定された。
朝鮮半島における緊張増大の結果として、第2歩兵師団は、1965年7月、大韓民国に復帰した。北朝鮮軍は、国境侵入と浸透の試みを増加させ、第2歩兵師団は、これら攻撃の停止を助けた。それ以来、米韓軍は、協力して非武装地帯
を警備している。
最終更新日:2004/03/19